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黄色い家には「募金箱」という小さな段ボール箱が、柱に備え付けられていました。
この貧しい学生達にどうかお恵みを、という意味もありましたが、毎月住人3人が5000円を出資し、そこからガス・水道・電気、時には米なんかも買っていたように思います。
バイトの給料が出た日の来客(友人)が、幾ばくかのお金を入れてくれたこともありますので「募金箱」となっていた訳です。
管理人はどういう使い方になっていたのか全然知りませんでしたが、それなりに平日の休みがある者が電気代とかを支払いに行ってくれていましたし、余ろうが足りなかろうが、私自身は全く気にしてませんでした。
もし誰か自腹を切ってくれていたりしてたなら、どうもすいませんでした。
気がつきませんで・・・。
その頃、仲間うちでカーリーヘアが流行りました。
住人では私とSK、良く来る友人ではFJとFJS。
そして先陣を切ったU君(彼はいっこ下でした)
私にとっても、その他友人にとっても人生でたった一度、最初で最後のことだろうと思います。
ちょうど「Hiromi Go」がカーリーやっていた頃で、それを真似たんだと記憶してますが、もうきっかけは定かではありません。
こんな奴らが群れていたら、ちょっと警戒されますよね。
ひょっとすると当時、近所の笑いものだったのかもしれません。
でも、そんなことを想像することすら知らなかった若者達は、似合うも似合わないも関係なく普通に生活してましたとさ。(笑)
海へ行く時はほぼ例外なく車で行く訳ですが、この黄色い家に住み始めた当時はまだ車が無くて、車持ちの友人(それなりに実家が金持ちです)に乗せてもらわないと行くことができません。
どうしても行きたいという友人が、電車で「いそこ」へ行くチャレンジをしたそうです。
大阪市営地下鉄はそのまま乗せてくれました。
ところが、難波で南海線に乗ろうとすると止められたそうです。
手荷物としては当然規定より大きすぎるので無理だとは知っていましたが、スポーツ用品としてならオッケーだと聞いていたのに、ここまで来て無理だと言われ・・・
たかが長さ2mほどしかないのに・・・しかもちゃんと手作りの布製の袋に入れているのに・・・弓道の弓はオッケーなのに・・・
文句を言っても受け付けてもらえないし、無理に行ったとしても、帰りにダメと言われたら余計に面倒だし、ということで帰ってきたそうです。
その後、南海電車でもサーフボードの持ち込みが出来るようになったと聞きますが、まだサーフィンが世間でそれほど認知されていないような時代、メジャーなスポーツでなかった時代の、ちょっと寂しい事件でした。
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